布施(ふせ)は、丁寧な言い方として「お布施」と呼ばれることが多いですので、ここでは「お布施」と書かせていただきます。
お布施(ふせ)は、一般的に僧侶に読経してもらったお礼に渡す金銭と考えている人が多いのではないでしょうか。
しかし、お布施は僧侶へのお礼ではなく、仏様へのお供えです。
つまり、お布施は僧侶に手渡しますが「こちらを御本尊様にお供えください」と僧侶に預けただけであり、「僧侶に差し上げたもの」ではないのです。
葬儀や年回忌法要などの際に、お布施を僧侶に渡すと、僧侶はお布施を預かって帰宅後に御本尊様にお供えいたします。
もちろん、現実的にはお寺の会計に計上されて寺院運営のために使われることになります。
布施は、梵語(ぼんご)では「檀那(旦那):ダーナ」と呼び、他者に財物などを施したり相手の利益になるようなことを提供することを指し、必ずしも金銭には限りません。
「檀那(旦那):ダーナ」をする家(家族)のことを日本では檀家(だんか)と呼びました。
檀家は、お寺を金銭的に支えたり、お寺の掃除をしたりという「お布施」をしてお寺を支えてきたわけです。
金銭的なお布施は、賽銭箱に入れるお賽銭と同じく浄財(じょうざい)であり、それは喜捨(きしゃ)でなくてはならないとされています。
つまり、イヤイヤ出すお金はお布施にはならないということです。
金銭を出すのに、喜んで出す人などいるのだろうかと思うかもしれませんが、推しのアイドルグッズを購入するとか、ネット上で投げ銭をするとか、プレミアム商品を適正価格で購入するとかいう場合には、喜捨(喜んで支払う)になっているのではないでしょうか。
自分にとってそれだけの価値があるなら、喜捨できるわけです。
私たちは、神仏に願い事をする時に、自分に何かの負荷をかけたりします。
いわゆるお酒を絶って願掛けをするとか、御百度参りするとか、賽銭箱にお賽銭を入れるとかいうこと(自分に負荷をかけること)をして、願いを叶えてもらおうとするわけです。
こうした負荷の痛みは、願いが叶うなら大したことではないと考える喜捨ともいえます。
願いが叶うなら喜んでさせてもらいますという純粋な気持ちから行うのが喜捨ですが、もう一歩踏み込んで、願いが叶うとか叶わないとか関係なく、そうした自分の利益とは無関係に行うのが本来の喜捨でありお布施です。
つまり、対価を求めた神仏との取引ではないということです。
お布施には、無財の七施(むざいのしちせ、むざいのななせ)という有名なお布施があります。
眼施(げんせ、がんせ):優しい眼差(まなざ)しで人に接する
和顔施(わがんせ):思いやりのある慈愛のこもった表情で人に接する
言辞施(ごんじせ):思いやりのある優しい言葉で人に接する
身施(しんせ):身をもって人を助ける
心施(しんせ):周囲に心を配り、心ある言動で人に接する
床座施(しょうざせ):座る場所を譲る
房舎施(ぼうじゃせ):安息できる場所を提供する
(注)読み方は諸説あります。
という金銭ではない七つのお布施。
これらは、対価を求めたりせずに、純粋な気持ちからの行いです。
お布施は、それをする者も受ける者も双方が清浄(しょうじょう)でなければならないとされています。
清らかな心で行い、清らかな心で受け取るということです。
人間には我欲がありますから難しいことではありますが、理想を達成することが難しくともその理想を見失うことなく近づけて行くことが大切かと思います。
お布施は金銭のことだと考えている人が多いですが、心ある行動そのものを指しているとも言えますので金銭だけではない様々なお布施があるのだということを忘れないでください。
つまり簡単に言ってしまえば、自分の純粋で慈愛に満ちた清らかな思いや気持ちを形にして表したものがお布施であり、お布施とは優しい心の交流なのです。
ちなみに、葬儀の際に寺院(僧侶)に渡す金銭のお布施は、「故人が仏教徒として仏様の世界である浄土に行くにあたり、もしかしたら故人は生前に十分な仏教修行が出来ていなかったかもしれませんが、それ以外のことで社会に貢献して得た金銭の一部を仏教のために使うことで仏教に貢献いたします」という意思表示です。
最近はないかもしれませんが、昔は毎日お寺の境内の掃除をしていた人などが亡くなった場合などには、金銭によるお布施などなくても葬儀をして手厚く弔ったのです。
清らかな気持ちや行動に対して、清らかな気持ちや行動で応えるというのが、お布施の在り方なのです。